第21回『昼顔 −平日午後3時の恋人たち 』

紗和は何故、家に火をつけたのか?

このドラマの最も大きな特徴は、実は私が激怒した最終回にこそあります。恋に落ちた主人公二人が法と古典的道徳によって引き裂かれる終わりです。過去の主だった不倫ドラマをさらってみたところ、恋愛が終末に至って別れを選ぶもの、不倫を貫いて新たな家庭を築くもの、性欲に溺れて最後は性交の最中に死ぬもの、不倫相手の娘とできちゃうもの等々はあれど、妻に法をたてにとって攻撃されたのでいきなり断絶するなんて終わりは『昼顔』以外には見当たりませんでした。

ドラマの設定も「社会的弱者である妻を不倫から守る」という典型から大きく外れています。北野の妻乃里子は美人の上に大学助教授であり、収入も社会的地位も夫よりも上。皆若く、子供もいない。双方結婚歴も短く、家庭が壊れたとしても社会的弱者は一人も生まれません。最も離婚して再出発しやすい条件が整っているのです。

にもかかわらず、大変な共感を集めたカップルに突然の破局が用意されていたのは何故なのか?本当に「不倫は問答無用で大罪だ」なんて道徳的なオチなのでしょうか。現実世界では糸井重里と樋口可南子のように、不倫から再婚しておしどり夫婦アイコンとなった例はざらにあるわけで、『昼顔』の結末を「不倫だからしかたないねー」と納得するには無理がありすぎるわけです。

そこで注目すべきは冒頭の「お七かよ!!」です。脚本の井上由美子はどうやら、不倫そのものが描きたかったわけではないかもしれない。不倫を現代の道徳的大罪に設定し、火付けで死罪となったお七を重ねることで、「恋」というものの恐ろしい本質を炙りだそうとした。何度考えても、そうとしか思えないのです。

お七が生きたとされる江戸時代は、結婚外の性交は全てが罪。火事で避難した寺で出会ったお七と吉三の恋は、最初から道ならぬものでした。吉三に会いたい一心で火付けの大罪を犯した愚かな少女のモチーフは、ベランダから火事を眺める紗和の絵から物語が始まるところで明確に提示されます。最終回で北野と断絶した紗和は、北野先生への未練を振り切ろうと自宅に火を放つ。このドラマのメインテーマ『Never again』の歌詞通り、「最悪、絶望するくらい孤独になって、愚かなこの恋で気が狂ってしまっても」やめられなかった恋は、結局お七のように紗和を壊してしまったのです。

何より恐ろしいのは、紗和もお七もそんな最悪の恋を一切後悔していないこと。究極の恋っていうのは、つまり、「最高に高まった状態で破滅に陥る恋」てことなのかな??ハッピーエンドになったら、いつかまた退屈な日常になってしまうし。我々が気安く夢想する「最高の恋」が本当に、そういう地獄の釜的なものだというなら……どうしたらいいんでしょうね。「はあーもう一回恋がしたいわー」とか言いつつセックスレスの我が身を憂いていられる主婦の皆さんは幸せなのかもしれませんよ。まあ、どちらにしろ凡人にはそんな究極の出会いなんて、万にひとつもないから大丈夫なんですけどね!!

松下祥子@猫手舎
ほぼWEB専業コピーライター兼ライター。大手検索サイトでのWEBマガジン立ち上げを経て独立、ポータルサイトでのコミックレビューコンテンツをはじめ、WEBサービスのブランディングや広告にこまごまと参加。執筆の得意分野は映画、ドラマ、本、旅行、オカルト、犬、昼寝などなど。