第36回『心がポキっとね』

『最後から二番目の恋』から変わったもの

このドラマはキャストや制作陣から持つ先入観を捨てて観たほうがいいというのは、例えば藤木直人です。評判を見てもほぼスルーというか、アクの濃い3人に存在をかき消されてしまっているのですが実際見てみると、主演4人のなかで1番いい。博愛精神に富んだイケメン社長つまり「最高の男」なのですが、実は中身がない。悩みもない。悩めない。何かを深く考えられない。そんなリアリティーのない大竹心という男の設定が、藤木直人の醸し出す独特の透明感というか薄っぺらさというかいい意味での抑揚のなさにハマりまくって、4人中で1番リアリティーを感じる役となりました。

水原希子だってそうですよ。演技以前に血統含む「存在」として反感を買っているようですが、実際見てみると藤木と同じく存在感勝ち。ガニ股でペンギン歩きするがさつな美人感が光り輝くようでした。あと若さね。途中藤木直人といい感じになった時はもう、絵が!単純に美しすぎて山口&阿部を忘れてしまったほどです。

冒頭でも申しました通り、このドラマは昨年末の続編も成功した『最後から二番目の恋』の岡田惠和脚本作品。ということでここもどうしても比べられてしまうけども、やはり惑わされてはいけないポイントです。

主人公、といっても『心がポキっとね』の誰を主人公といっていいか分かりませんが、山口智子と仮定するなら『最後から二番目の恋』の小泉今日子と同じ45歳という設定。住む場所も、あっちは鎌倉こっちは吉祥寺と典型的なおしゃれタウン。独身オーバー40の恋を扱うところも一緒、あっちが古民家カフェ暮らしならこっちは倉庫改造型アンティーク住宅暮らし。あっちがドラマプロデューサーならこっちは空間デザイナー。すごく似てるので似たような感動を期待しても無理はない、かもしれない。

しかし『最後から二番目の恋』が、今まで岡田惠和が繰り返し描いてきたプロットの延長線上にある本物のラブコメであるのに対し、『心がポキっとね』は中年層のなかに隠れた「薄っぺらさ」に正直に向き合うドラマである。そこがこの2作品の大きな違いなのです。

『最後から二番目の恋』では、それぞれ事情を抱えた、一皮むくと死と背中合わせのような、大人数なのに不在感がある奇妙な家族のなかに、やはり何か欠けたものがある他人が入り込むことによって大きく物語が動き出すという、「家族があるからこその暗さ」が隠れているのですが、『心がポキっとね』はあくまで擬似家族の話。皆病んでいて、それぞれに過去を背負っているらしいけども、その過去とやらが薄っぺらいし、軽く目を背けたくなるくらい老けている45歳のキョンキョンが「閉経かも」とか「これからあと何回できるかわかんないんだよ?」とか言ってるドラマに比べて、50歳にはとても見えない45歳設定の山口智子が「どう私、おしゃれでしょ?て感じで、いつも自分自分自分で見ていて痛い」なんて言われつつ自分探しに奔走するなんてのはもっと若い人の悩みでもおかしくはないわけで、つまり悩みそのものはエグいけども質が薄っぺらい。しかもよく見ていると恋愛ドラマですらない。恋に恋してるだけ、寂しさを埋めたいだけ。このドラマは、40代でありながら「青春」という空回りの時代に取り残されたままの男女を描いている、別の意味での「リアル」を追求している、のかもしれないのです。

40を越えて病んできて、他者との繋がりも希薄で、自分のなかの空洞に気づいてもすでに取り返しがつかない、でも一向に心は年なりの落ち着きを得られない。考えてみればそんな人は今世の中に溢れかえっているわけで、そこにリアリティーを持たせたドラマなんて重すぎるじゃないですか。『心がポキっとね』は、そんな孤独で未熟な40代に「おしゃれ」というオブラートを被せて提示してみせた。その内実を嗅ぎつけられた人は思い切りこのドラマにハマり、空回りするおしゃれさしか見えなかった人は1話で脱落する、と……確かに観る人を選ぶ作品ではありますが、私なんかいい現実逃避として見させてもらってますよ。ここまで来ると嫌味にも感じない。そんなドラマです。

松下祥子@猫手舎
ほぼWEB専業コピーライター兼ライター。大手検索サイトでのWEBマガジン立ち上げを経て独立、ポータルサイトでのコミックレビューコンテンツをはじめ、WEBサービスのブランディングや広告にこまごまと参加。執筆の得意分野は映画、ドラマ、本、旅行、オカルト、犬、昼寝などなど。