「落伍者」と北の大地
私も今回見なおして驚いたんですが、このドラマ、北海道の大自然要素を取り払ってみると、見事なくらい全編に渡って何らかの落伍者ばかりを描いているのです。そういう方々が北の果てに吹き溜まっている。美しき北の大地は逃避の場であると同時に、入ったら二度と出られない小さな牢獄でもあるのです。
このドラマで繰り返し描かれるのは「ついていけない」人たちの切なさです。特に、久々に東京に行ってみたら友だちに全くついていけなくなっていた純の痛々しさは、妻や東京へのコンプレックスの裏返しとして、自分の得意分野であるサバイバルテクニックを駆使して父の威厳を示そうとした五郎のエゴの犠牲になったことを、はっきりと映し出すものです。
結局黒板五郎は、股間が大人しいビッグダディーですよ。林下氏の「貧乏だけど何でも作れて僻地で子育てしている」初期のイメージは『北の国から』そのものじゃないですか。純が、父が貧乏でも様々工夫して懸命に生きている様子に共感するようになるのも、大好きな母が「一緒にいて」と泣いて頼んでも結局父を選んでしまうのも、母の尻が軽いのも、ビッグダディーで同じようなシーンを全部見ました。どっちも「勉強より大事なこと」を言い訳に子供にろくな教育を受けさせないし。どっちも大した毒親です。
しかし後半、五郎の空回りし続ける東京生活が繰り返し描かれるようになると、なんというか。純に自転車をせがまれて、古い自転車を拾ってきて手入れして渡したら自転車泥棒の汚名を着せられてしまう。一番安いという理由で五郎が子供達に買った一足きりの靴が、ボロボロだといって捨てられてしまう。なんだか見ているうちに、不器用エピソードが積まれるほど泣けてきて、「父さん!!」と、父さんでもないのに抱きつきたくなるというか。ちっぽけな父の背中が厳冬の原野で光り輝くのが、この上なく嬉しく感じられてくるのです。
五郎は間違いなく落伍者ですが、息子の視線によって息を吹き返す。かけがえのない偉大な父になる。そのカタルシスが雄大すぎる北海道の自然とあいまって、飲まれるんですね。みてる側が。で、泣いちゃう。黒板家が世界中の涙を誘ったあのシーンといえばやっぱり「子供がまだ食ってる途中でしょうが!」ですんでまたリンク貼っときます。