ささやかだけれど、役にたつこと
前ページの表題である「どんなに悲しいときも、何かを食べなきゃ生きていけない」。どこかで聞いたことあると思った方はいないでしょうか。私は瞬時に思い当たりましたよ。別に私はハルキストではありませんし、どちらかといえば本に触るのも嫌なくらい嫌いです。けども春樹は翻訳だけは見事でして、特にレイモンド・カーヴァーというアメリカの小説家のものは素晴らしかった。いまやカーヴァーは私の好きな作家No.1ですよ。それも春樹先生の翻訳のおかげ、日本にいるカーヴァーファンは即ハルキスト認定でもいいかもしれないです。翻訳以外だと春樹は短編小説もよし。立ち読み可です。エッセイは購入可。カーヴァーは自費購入後配布推奨です。
でね、カーヴァーの最高傑作のひとつである『ささやかだけれど、役にたつこと』という小説がありまして、そのラストシーンで、パン屋がこんなことを言うんです。
よかったら、あたしが焼いた温かいロールパンを食べてください。ちゃんと食べて、頑張って生きていかなきゃならないんだから。こんなときには、ものを食べることです。それはささやかなことですが、助けになります。
パンです。前ページでも書きましたが、『昨夜のカレー、明日のパン』第一回のキーシーンのひとつもパン屋での出来事でした。
テツコとギフは、一樹が不治の病であることを知りながら、病院で検査だなんだと毎日長い時間待たされ、口もきけないほど疲れ果てて帰路につくのですが、その途中で夜だというのに焼きたてパンのあるパン屋の前を通りかかるんです。で、灯りに引き寄せられるようになかへ入って、焼きたてパンの甘い匂いに癒やされて、抱えたパンの袋の温かさに
「猫抱いてるみたい」
「ほんとだ、生きてるみたいだ」
と語りあい、思わず笑顔になる。そこでテツコは思うんです。
こんなに悲しくても、しあわせな気持ちになれるんだ
一方で『ささやかだけれど』のほうは闇と光の対比がより強烈です。ある日母親が8歳の息子のバースデーケーキをパン屋に頼んだその直後、息子が車に跳ねられる。ずっと昏睡状態だけど医者はそのうち意識は戻るといい、父母はただひたすら息子の快方を待つしかない。そこに誰かから嫌がらせの電話が執拗にかかってくるようになり、結局息子はそのまま死んで、夫婦の疲労と絶望が頂点に達した時、電話の主がバースデーケーキを頼んだパン屋だと気づくんです。ケーキを放置され自分の仕事を無駄にされたことを逆恨みしたんですね。夫婦はあらゆる怒りが爆発し、夜更けのパン屋を襲撃します。そこで全ての事情を聞いたパン屋は反省し、二人に許しを乞います。そして前述の「ちゃんと食べて生きていかなきゃいけない」に続くんです。憔悴の底にあった二人は、本来なら食事が喉を通る状態じゃないのに、パンの温かい匂いと淹れたての熱いコーヒーの匂いに惹かれて、焼きたてパンを貪るように食べ始めます。コーヒーを飲み、出されるパンを次々と食べ、やがて夜は白みはじめ、パン屋と夫婦は様々なことを語り合う。そこで物語は終わります。
陰鬱で、救いがなく、あらゆる不幸と悪意が簡潔な文章で刺すように積み重ねられていくラストで突然、神の恩恵のように光がさすんです。私の拙い説明ではきっと伝わらないでしょうからここは、是非(春樹代弁による)カーヴァーの小説を読んでみてください。この物語の奇跡的な美しさと温かさに、胸が打ち震えることでしょう。
で、『昨夜のカレー』のパン屋のシーンね。どう見ても『ささやかだけれど』の展開が凝縮されてるでしょう?1シークエンスで知る人ぞ知る名作小説全部をパクったと言われかねない状態です。しかしこのドラマが素晴らしいのは、このパンのパクリ疑惑エピソードが物語に見事に溶けこんでいることです。これこそオマージュというくらい。扱いを間違えばひたすら痛い、パクリごけになりかねない状態でしたが、「猫抱いてるみたい」「生きてるみたいだ」と言い換えてみせるあたり、言葉をなくして泣くしかありませんでした。泣きながら『ささやかだけれど』を読み返してまたオイオイ泣きました。
ところでこれ原作が木皿泉の処女小説で、山本周五郎賞候補になったんですが、なるほど候補になっても異論はない、うまいオマージュです。受賞を逃したのもオマージュのせいかもしれませんが、前回のレビューでちらっとご紹介した名作『最後から二番目の恋』でのSATCのポストイット男の逸話オマージュの目も当てられないダサさと対比すると、『昨夜のカレー』のオマージュの奇跡を実感できることでしょう。