ディランはインナーを履くものか

やせ我慢は不要のものに

今回の帰省で、日本で唯一買ったもの。

レギンスというのかスパッツというのか、はたまたズボン下というのかステテコというのか股引というのか。

セールも終盤戦、もはや処分価格のたたき売り状態になっているコートだのニットだのには一切目もくれず、パンツの下に履くインナーだけを何枚かまとめて買ってきました。これまではこいつの存在をずっと否定してきたのに、今年はあっさり陥落。真冬のゴルフのときに身につけることはあっても、日常で使うことは絶対になかったのに、今シーズンは年末あたりの冷え込みから手放せなくなっています。

加齢とともに、我慢が効かなくなってきたんだなあと、つい最近までは思っていました。でも、よくよく考えると、我慢ができなくなったのではなくて、我慢することを積極的に手放してしまったような気がしています。

いまよりずっと若い頃は、やせ我慢を突き通すことが格好良いことだと信じて疑いませんでした。たとえ真冬の寒い日であっても、フリーホイーリンのボブ・ディランのように首をすくませながらポケットに手を突っ込んで薄着のまま外を歩くのが正しいことで、まさかディランがパンツの下にインナーを履いているわけがないし、当然そんなことを自分がするなんて、まさか想像もできないことでした。

多少の無理はぐっと飲み込んでやり過ごすのが美しいことだと信じていれば、いろいろなことを我慢することはたいした苦ではなかったのです。

でも最近、曲がりなりにも自分で会社をやるようになると、毎日が我慢の連続であることに気がつきました。これはこれでけっこうしんどい。嫌でも我慢しなくてはいけないことが迫ってくるならば、我慢しなくてもいいことに対してわざわざやせ我慢を続けることに何の意味があろうかと。そんなことで動きを止めている時間があるならば、さっさと我慢を放棄して次に進む方法を考えた方がいい。自分の思考と行動方式がそういう方向にシフトしていったとき、寒い日に薄着をして凍えていることがばからしくなって、パンツの下に1枚履けばあたたかくなるのならば、それはそれでいいことなんじゃないかと思うようになった結果の今回のインナーまとめ買いなのです。

肉体的な作用はもちろん、「我慢しない」というチョイスは精神的にも肩の力が抜けた感じでいろいろなことが楽になりました。

楽になれる方法を身につけられるようになるのなら、年を取ることも案外悪くないものだとさえ思います。

まあ、我慢が効かなくなったのか我慢することを積極的にやめたのかはともかく、結果的には、加齢のせいでパンツにもインナーが必要になったっていうことに代わりはないような気もしますが。