VOL.33 戦後の映画スター 高倉健さん悪性リンパ腫で死去

こんにちは。
STRコミュニュケーション協会の森松信樹です。

また悲しい知らせが届いてしまいました。俳優の高倉健さんが今月10日、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で亡くなりました。83歳でした。

健さんの愛称で親しまれ、半世紀以上にわたって第一線で活躍し、戦後の日本を代表する映画スターでした。

所属事務所から訃報をしらせるFAXには「往く道は精進にして、忍びて終わり悔いなし」と酒井雄哉大阿闍梨からもらった座右の銘が添えられていました。

今日は、彼の人となりを振り返ってみたいと思います。

高倉 健 1931年2月16日生まれ>

【宿命:義】(生き方。人生のシナリオ)
義理人情に厚くて、困っている人を見過ごしたり出来ない、大変面倒見の良い人です。夢やロマンティックなムードよりも、日々の現実を充実させる事に関心があります。思考も行動も現実的で、過去も未来も現実の為なのです。基本的に親切なので、家庭でも人間関係でも、平和で穏やかな状況を作り出して行くでしょう。

【心:□4海】(本質。家族や恋人から見た人柄)
気取りのない言葉遣いが爽やかな印象を与える男性。どっしりとしていて少々の問題が起きても動じませんが、実際は臆病なほどに自分を守ろうとする神経質な所があります。その警戒心が、本来の短気で感情的な部分をうまく抑えています。人間としての生き方を教え導いていく事に情熱を燃やすヒューマニスト。しかし無理をせず着実に生きて行こうとする努力家で、理想を持って日々邁進して行く若々しさが魅力の男性です。

【頭:○1】(考え方。仕事の時の様子)
自然体で表裏がなく、うそのつけない正直者で、心温まる人間関係を好む。自分が心から安心できる環境を作り、至らない所に付加価値をつけて行く。誰からも可愛がられたい精神性があり、人を育てるのが好き。

【適応値:H28】(ストレスの受けやすさ)
団体生活での常識や社会の規範の中では適応値が高すぎます。その為にかなりの困難が伴います。高すぎる適応値の為に自分自身を傷つけ、不安定になる事もあります。

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◆生い立ちからデビューまで
福岡県中間市の裕福な一家に生まれる。父は旧海軍の軍人で、母は教員でした。幼少期の彼は、肺を病み、虚弱でした。終戦を迎えた中学生の時にアメリカ文化に触れ、ボクシングと英語に興味を持ち、小倉の米軍司令官の息子と友達になって英語を覚えます。貿易商を目指して明治大学商学部商学科へ進学・卒業するも、思ったような就職先がなく一旦帰郷します。

1955年に知人のつてで、芸能マネージャーの面接を受けた時、居合わせた東映のマキノ光雄にスカウトされ、東映ニューフェイス第2期生になります。俳優座研究所では「他の人の邪魔になるから見学していてください」と言われるほど落ちこぼれでした。

採用から1か月半で主役デビューが決定し、その際に「高倉健」と芸名をつけられる。本人は主人公の役名「忍勇作」を芸名にと希望したが却下され、嫌々ながらの芸名デビューとなりました。

1956年『電光空手打ち』で主役デビュー。幅広く現代劇映画に出演しますが、まともな演技トレーニングを受けないまま、数多くの作品に出ることがコンプレックスになっていました。

◆仁侠映画のスターに
1963年『人生劇場 飛車角』以降、仁侠映画を中心に活躍します。1964年からの『日本侠客伝』、1965年『網走番外地』『昭和残侠伝』などに主演。

70年安保をめぐる混乱という当時の社会情勢を背景に「不条理な仕打ちに耐え、ついには復讐を果たす着流しのアウトロー」である高倉演じる主人公は、学生運動に身を投じる学生を含め、当時の男性に熱狂的な支持を受けます。当時の風貌は、劇画『ゴルゴ13』デューク東郷のモデルにもなり、実写映画版への出演は、原作のさいとう・たかをたっての希望だったとか。

観客がスクリーンに向かって喝采し、映画が終わると人が変わったように出ていくさまを目の当たりにし、「これ、何なのかな……と思ったことあるよ。わかりません、僕には。なんでこんなに熱狂するのかな、というのは。だからとっても(映画というのは)怖いメディアだよね。明らかに観終わった後は、人が違ってるもんね」と、当時の様子を客観視し語っています。

◆フリーに転向、幸福の黄色いハンカチ
「このままいたら、ヤクザ役しかできなくなる」という危機感から出演を拒み、1976年に東映を退社します。

そして同年、『君よ憤怒の河を渉れ』に主演し、仁侠映画のイメージから脱却します。1977年には『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』に主演し、第1回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞と、第20回ブルーリボン賞の主演男優賞のダブル受賞に輝きます。

以降、『南極物語』『ブラック・レイン』『忠臣蔵 四十七人の刺客』『鉄道員(ぽっぽや)』『単騎、千里を走る。』など数々の映画に主演します。

2012年8月、205本目の主演作品『あなたへ』が遺作となりました。

◆自分、不器用ですから
張芸謀(チャン・イーモウ)は『単騎、千里を走る。』の撮影の際、健さんが休憩の時に椅子に一切座らず、他のスタッフに遠慮して立ち続けていたことや、中国人エキストラにまで丁寧に挨拶していたのを見て「こんな素晴らしい俳優は中国にはいない」と発言してるほど、礼儀正しい人物として知られています。

宿命「義」の人のために自分が出来ることを探す部分と、心「□4」の自己管理に厳しい部分がでています。

「自分よりもお金を貰っていない人たちのほうがはるかに頑張っている。現場はそうした人たちによって成り立っている。そんなことに気づくまで何十年もかかった」と、出番以外も常に現場に立ち続けることへの思いを語っています。

1984年日本生命のCMで言った「自分、不器用ですから」の台詞から武骨で寡黙なイメージがありますが、実際は常に誰かが側に居てほしいと言うほどに話し好き、いたずら好きで、ユーモアを交えながら共演者やスタッフを和ませ、ロケ先では周辺を散策し地元の住民との交流もしています。

おちゃめな所は、頭「○1」の赤ちゃん気質がでている気がします。一見すると取っ付きにくい「□4」と実際の表現「○1」のギャップが年齢に関係なく愛される部分かもしれません。

交友範囲が広い宿命「義」ですが、東京アメリカンクラブのメンバーである彼は外国人の友人も多いです。『昭和残侠伝シリーズ』で共演した潮健児は「面倒見がよく、周囲に気を遣い、傍に誰か話し相手が居ないとしょげてしまう程の寂しがり屋」と健さんを回想しています。

山口組三代目・田岡一雄とも親く、江利チエミとの結婚披露宴へ招待しています。美空ひばり・小林旭夫妻と飲んでいるときには、酔っていた小林が腕時計をプレゼントしようとし、健さんは丁重に断るものの、受け取れと強引に迫られ、困り果てていた彼をその場にいた田岡が「健さん、もらっとき。気にせんでええ。旭にはワイのをやるよってな」と丸く収めてもらったエピソードも。

ビートたけしとは1985年『夜叉』で共演以来、互いに大ファンで、2012年9月8日放送の『プロフェッショナル 仕事の流儀 高倉健スペシャル』でも、撮影の合間、高倉がたけしに「えぇ、たけちゃん、えぇ、勝新太郎です。会いたいよー」と冗談まじりに声色を変えて、留守電にメッセージを入れている様子が放送されています。

戸浦六宏さんが亡くなった時のことを息子が回想するなかには
「葬儀が終わり、三日ほど経った頃だったと思う。郵便物が届いた。開けてみると木の箱に入った上品なお線香の束と、丁寧だが簡潔な手紙が入っていた。高倉健さんからだった。母によると父と高倉さんは決して親しい間柄ではなかったそうだ。想像するに、撮影所などで顔を合わせた際に挨拶を交わす程度のおつき合いだったに違いない。通夜告別式の席に花を送るではなく、弔電を打つでもなく、葬儀が終わりほっとして家族にやっと哀しみが訪れる時を考えて、それも相手が決して不要とは思わないお線香を送ってくださる。何という優しさ、人への思いやりだろうと思った。多くの人に愛されるスタアとは、本当に素晴らしい役者さんとはこういう人のことだと思った。母と僕は頂いたお線香に火をつけ、父の遺影に静かに手を合わせた。」

自分には厳しいながらも、関わる全ての人に優しく接してきた高倉健さん。最後は、天命を全うし安らかな笑顔だったそうです。

今夜は彼が残していった作品を観ながら、自分の生き方を見つめ直そうと思います。

合掌。

STRコミュニュケーション協会CIO・森松信樹